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第1回 そもそも八百長とはなにか? その言葉の起源

 まずは「Wikipedia」の八百長の項目から、「由来」のところを以下引用する。

 八百長は明治時代の八百屋の店主「長兵衛(ちょうべえ)」に由来するといわれる。八百屋の長兵衛は通称を「八百長(やおちょう)」といい、大相撲の年寄・伊勢ノ海五太夫と囲碁仲間であった。囲碁の実力は長兵衛が優っていたが、八百屋の商品を買ってもらう商売上の打算から、わざと負けたりして伊勢ノ海五太夫の機嫌をとっていた。

 しかし、その後、回向院近くの碁会所開きの来賓として招かれていた本因坊秀元と互角の勝負をしたため、周囲に長兵衛の本当の実力が知れわたり、以来、真剣に争っているようにみせながら、事前に示し合わせた通りに勝負をつけることを八百長と呼ぶようになった。

 なお1901(明治34)年10月4日付の読売新聞では、「八百長」とは、もと八百屋で水茶屋「島屋」を営んでいた斎藤長吉のことであるとしている。

 この記述をさらに解説を加えると、明治35年の鎗田徳之助『日本相撲伝』では、八百長が碁で手加減していたことを憤った伊勢ノ海がこのことを吹聴し、さらに相撲興行の売買で賄賂を払ったことを「八百長を取られた」と言ったことから、賄賂の隠語として広まっていたと記されている。(『日本相撲伝』の「八百長とは相撲社会に用ゆる賄賂の代名詞なり」から)

 つまり、八百長は明治30年代に誕生した言葉で、『日本相撲伝』によろば、「賄賂」の代名詞として使われていたようだ。

 同じような意味で、明治時代には「ペテン」が使われていたが、ペテンと八百長は区別されていた。

 ペテンは、いわゆる禁手行為に当たるようなズルい手を使うこと。これに対し、八百長は「わざと真剣に試合をしないで、引き分けあるいは試合を預かりにしてしまう」(試合結果を出さない)ことだった。そのために賄賂もありということだったらしい。

 明治時代の相撲は、「引き分け」「預かり」があり、勝ち負けをつけない相撲が多かった。これを八百長といい、わざと試合をしないで勝ち負けをなくしてしまう。当時は1場所10日だったから、8勝以上した力士が「負け」を増やさないために引き分けに持ち込もうとして試合を長引かせることが多く、それが「八百長」として激しく非難された。

 ちなみに、八百長こと斎藤長吉が亡くなったのは、1901年(明治34年)である。

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