第3回 戦前の相撲読本に記された八百長の例
鍵富寿吉『相撲読本』(1942年、昭和17年刊)に記された八百長の例を、以下いくつか挙げておきたい。(■以下の要約文は、「閾ペディア」より引用)
- 江戸時代の大横綱・谷風の話。佐野山という弱い力士がいたが、家は貧乏で親孝行だと谷風は知っていた。そこで、ある年の湯島天神の相撲興行の際、わざと佐野山に負けてやった。そこで集まった投纏頭(なげはな)が600両余りで大成金になった。佐野山は感激して力士をやめて故郷大坂へ帰り、佐野屋権平という米屋を始めて成功したという。
- 浄瑠璃『関取千両幟』では、猪名川が鉄ヶ嶽に負ける八百長相撲をしろと強要されるが、八百長をせずに正々堂々と勝負する(その裏で猪名川の妻が自ら遊女になって賞金をこしらえていた)という話である。これは当時の実在の力士の稲川と千田川の勝負をもとに作られた架空の話である。実際には人気のあった稲川があっさり千田川に負け、稲川がわざと負けたと噂になった。
- 明治四十三年六月場所の十日目、東の関脇・朝潮(後の高砂浦五郎)と西の張出大関・国見山との対戦。国見山が右膝を脱臼したことに気づいた朝潮が、その隙に乗じて勝ちを取るのは潔くないと考え、国見山の体を支えていた。それに気づいた行司が「水だ」と声を掛け、一旦水入りとなった。その後取り直しとなったが、国見山も強気に出られず、ついに引き分けとなったという。
- 国技館の出来た翌年の明治四十三年、新進の太刀山が駒ヶ嶽とともに人気があった。二人の対戦となったとき、預かりとしようという約束で土俵に上がった。打ち合わせ通り土俵際で同時に落ちようとしたところ、太刀の体が少し早く着いてしまい、駒ヶ嶽に軍配が上がった。その後物言いの結果、太刀が半星、駒に丸星ということになった。
- 大正初年、大阪で東西大合併の相撲が行なわれた際、常勝将軍・太刀山が大阪の横綱・大木戸との一番に破れた。これは、太刀山がふんどしをつり上げようとしたところ、大木戸のふんどしがゆるんで肩まで持ち上がってしまった。うっかり離せば股間が出てしまうので困っていると、その隙に大木戸ががぶり寄り、寄り出しで勝ちを収めた。
- 大正初年ごろの大阪には小若島と小染川という花形力士がいた。ひいき客が「どちらも負かしたくない」というので、お客同士が八百長談を成立させ、両力士に伝えてどちらも負けないように八百長相撲を取れと伝えた。客が言うのでいつも分けか預かりを続けていたのだが、一般の観客もそれを喜んで満足していたという。