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本当にあったガチンコ場所「1972年初場所」のすごい結果
1972年1月場所(初場所)は、戦後の大相撲史上で唯一のガチンコ場所であったようだ。この場所は、当時、もっとも人気があった貴ノ花が負け越してしまったり、横綱・北の富士が負け込んだうえに途中休場してしまったりと、大関が半数しか出場せず、評判は最悪の場所と記録されている。
しかし、これこそが、ガチンコ場所の証明であるという。
このガチンコ場所の詳細を、2011年2月24日号の『週刊文春』が記事にしている。
では、なぜ、この場所がガチンコ場所になったのだろうか?
この場所前から、相撲に対する世間とマスコミの批判が高まっていたからである。この前年、大横綱だった大鵬が引退。その弟弟子だった横綱・玉の海が10月に27歳の若さで急死してしまうという出来事が起こっている。そんななか、一人横綱となった北の富士に、暴力団からのぼりと懸賞金を受け取ったという事実が発覚。さらに大関の大麒麟も収監中の暴力団組員に面会するということが発覚し、角界の「黒い交際」問題が、クローズアップされるようになった。
さらに、無気力相撲が世間から批判され、名古屋場所でカド番だった琴櫻が大麒麟に勝った一番が八百長だと騒がれた。
そこで、時の理事長・武蔵川喜偉(元前頭筆頭・出羽ノ花)は、「相撲競技監察委員会」を設置し、無気力相撲をなくす方針を打ち出した。この委員会が、国技館の2階席に陣取り、土俵を監察することになったのが、1972年1月場所だったのである。
武蔵川理事長の案は、場所前半は番付上位陣を対戦させる。そして、後半は成績のよい者同士をぶつけるというもの。かつて、明治時代にも同じようなことが行われたことを復活させたものだった。明治43年にも、同じように八百長問題が騒がれたことがあり、そのときは初日から上位陣同士の取り組みが組まれたことがあった。
それでも戦前予想は、2連覇中の一人横綱の北の富士が大本命。読売新聞は「全勝優勝も」と予想している。
しかし、ふたを開けてみると、初日から上位陣は星を落とし続ける。北の富士は13日目に6敗目を記録すると、横綱の権威が守れず休場。横綱が7勝7敗1休という惨憺たる成績になってしまった。
大関陣も同じ。張出大関の前の山は5日目から休場、琴櫻、長谷川も不振。小結の輪島、前頭3枚目の福の花、前頭8枚目の吉王山、前頭10枚目の若二瀬が千秋楽10勝5敗で並んでしまった。
ちなみに、このとき幕尻にいた北の湖は5勝10敗で、十両に陥落。現理事長の放駒親方(魁傑)は前頭5枚目、7勝8敗で負け越している。人気力士では初代の貴ノ花、高見山も6勝9敗だった。
このとき、千秋楽まで4敗できていたのが前頭4枚目の栃東(現・玉ノ井親方の父)である。栃東は千秋楽で大関・清国と対戦し、これに勝って初優勝を遂げた。しかし、ここで負けていたら、10勝5敗力士が8人にもなり、8人で優勝決定戦という前代未聞の出来事になるところだった。
平幕力士の優勝が23年ぶり。11勝での優勝は史上最低の勝ち星(その後1996年に武蔵丸が記録)というのが、1972年初場所の結果だった。
この結果でわかるのが、15日間ガチンコでやれば、横綱、大関中心の土俵の秩序は崩れ、なにが起こるかわからないということ。もうひとつは、ケガ人が続出するということだ。
したがって、これ以後、ガチンコ場所は二度と組まれず、翌場所からは「公傷制度」が導入された。公傷制度は本場所中にケガで翌場所休場を余儀なくされた場合、番付は変動しないというもの。ただし、2004年に廃止された。