File - 1 《1960年3月場所 栃錦・若乃花の千秋楽全勝対決》
1953年、大相撲は現在のような6場所制(1月、3月、5月、7月、9月、11月)、1場所15日間という体系になった。この年は奇しくも、日本でテレビ放送が開始された年でもある。大相撲はテレビ放送開始とともに生中継され、相撲人気は日ごとに高まっていった。
そんななかで大活躍したのが、栃錦と若乃花(初代)という2大横綱。この時代は「栃若時代」と呼ばれた。1960年(昭和35年)3月場所、栃錦・若乃花の両横綱は千秋楽まで全勝できており、どちらが勝っても「全勝優勝」ということで、日本中が湧いていた。
しかし、その裏で両横綱が所属する部屋の若衆たちの話し合いが行われていた。若乃花は2場所前に星を栃錦に貸していたので、それを返してもらって優勝する絵図を描いた。しかし、栃錦も自分も全勝優勝したいと譲らず、両部屋の話し合いになったのである。
当時を知る中島克治氏(元幕内力士の大ノ海の息子で、自身も67年から4年間、花籠部屋所属力士)の証言(『週刊現代』2011年2月26日号)によると、栃錦が転ぶことを了承し、取り組みの細部まで突っ込んだ打ち合わせがあったという。
「この一番は、春日野部屋と花籠部屋の若い者同士が話し合ってやむを得ず組んだ八百長だったのです」
「栃錦は右四つ、若乃花は左四つのケンカ四つ。ストーリーとしては、最初は差し手でもみ合って、こう着状態が続いたあげく、栃錦が吊り上げるのですが、その差して手を若乃花が必死で外し、そして最後は若乃花が寄り切るわけです」
「栃錦が星を譲る条件は、名誉ある敗戦であること。そして、当時150万円くらいだったと思うのですが、その優勝賞金と、懸賞金のすべて、さらに星を譲る礼金として100万円くらいを若乃花が払うということでした」
この白熱の注射相撲は筋書き通りにうまくいき、優勝した若乃花の人気はピークに達した。
このように、テレビ時代を意識して、注射も慎重に工夫して行われたのが、この時代である。当時の力士たちには、「名に恥じない」という意識があり、注射をするにしても見る側の客のことまで考えて行っていた。
注射名勝負、昭和35年3月場所《栃若、大相撲史上初の千秋楽全勝対決》は、4分40秒すぎからです。