第2回 明治時代の新聞に見る八百長 〈1〉
《1910年(明治43年)1月30日讀賣新聞》
板垣伯の八百長
去廿六日板垣退助伯が友綱部屋で太刀山、国見山以下を集めて八百長相撲を攻撃して一場の訓示演説を為し太刀山以下は今後一切八百長はやらぬと云ふ証書を書た訓示は兎に角証書はチト臭いなと思つて居ると其実今場所打上後八百長に就て八方より攻撃を受け殊に退隠する筈の国見山を或る関係から登場させたりして大相撲が徹頭徹尾八百長に終つたと奮慨した者すらあるので是では次場所の人気にも関すと遂に老伯爵を煩はして訓示演説及誓の証書となつたのだと素破抜く者がある八百長訓示などは愈々以て馬鹿にしてテ居る処が少々早まつて東方に相談に及ばなかつたので目下東西重訳の間に衝突を起して居ると