Opinion - 3
なぜ番付が? 八百長こそ日本の伝統システム (2)
島根県・隠岐島には、古来から行われてきたという「柱相撲」という行事がある。これは、毎年春になると、「島の各村からチャンピオンが出場し、年に一度の“島の横綱”を決定する神事である。
ところが、この横綱を選ぶための勝負は、不思議なことに必ず二番勝負となっている。チャンピオンを決めるトーナメントなら、二番勝負にする必要はまったくないのに、なぜこうするのだろうか?
おそらく、それは、敗者に花を持たせるためで、決定的な優劣をつけるのを社会全体が嫌うからだと思われる。
そうでなければ、勝負を必ず二番行う理由がない。
この二番勝負は、まず、最初の勝負は完全な実力勝負、勝ったほうが勝ち進む権利を得る。そして、次の二番目は先に勝ったほうが負けたほうを勝たせるのである。つまり、二番目の勝負は注射(八百長)で成立しているのだ。こうすると、どの勝負も1勝1敗になってしまうが、確実に横綱は決まる。
しかし、スポーツならチャンピオンは全勝のはずが、この柱相撲では何敗もしているのだ。それが、チャンピオンと言えるだろうか?
こうなると、もうこれは、日本人の生きる知恵というしかない。何百年も何千年も同じ島の中で共生しきた人々は、便宜的にはチャンピオンが欲しい。しかし、本当のチャンピオンを選んでしまっては、その村社会は崩壊してしまうのである。こうして本当は誰が強いかわかっているにもかかわらず、外からは誰が強いのかわからないように、勝敗を操作してしまう。つまり、談合して八百長をし、その社会の存続をはかるのである。これが、相撲の八百長を成り立たせている本質だ。
したがって、本気で相撲の浄化を押し進めたら、日本の伝統的な社会システムまで破壊しかねない。そんなことが、はたしてできるのだろうか?
わたしたちは、相撲の一日も早い復活を望んでいる。明らかな反社会的な部分は改革するとしても、相撲の本質だけは壊してほしくない。