Opinion - 3
なぜ番付が? 八百長こそ日本の伝統システム (1)
相撲になぜ「番付」があるのを考えたことがおありだろうか? その番付が、「東」と「西」に別れていて、横綱や大関が何人もいることを不思議に思ったことはないだろうか?
相撲は日本文化を色濃く反映した「国技」であるという。では、日本文化とはなにか? その本質は、八百長である。八百長と言うと言いすぎかもしれないので、「決着をつけないこと」と言ったほうがいいかもしれない。それは、相撲の番付に如実に表れている。
現在は白鵬の一人横綱が続いているが、これまで横綱は二人や三人もいることがザラだった。大関も関脇も何人もいて、番付といっても、それは必ずしも実力を現していない。これこそが、相撲がスポーツではない点で、日本文化そのものなのだ。
スポーツは優勝劣敗により、一人のチャンピオン(勝者)を決めるために行われる。これは、西洋文化では当たり前のことである。とすれば、相撲の番付は完全にその機能から逸脱している。「東」と「西」に横綱がいては、どちらが本当に強いかわからない。大関が何人もいては、本当に強いのは誰かわからない。また、相撲には同部屋力士の取組もない。
つまり、日本文化は、完全なる勝者をつくることを嫌うのである。白黒をハッキリつけさせて、誰がいちばん強いかを決めると、日本というシステムは崩れてしまうのだ。たった一人のリーダーを決めて、それに従っていくというのは、日本の伝統的なシステムではない。なるべく争わず、穏便にいく。
会社でも、社長がお飾りだったり、派閥があって実力者同士が話し合ったりして、ものを決める場合が多い。よく問題にされる談合もまた同根だ。いくら問題にされようと、談合がなくならないのは、わたしたちの文化そのものだからだ。政治の世界でも、日本に本当のリーダーシップを持った総理が出たことがあるだろうか?
番付とはいうが、あれは、ランキングではない。わざわざ「東」と「西」をつくり、横綱から小結にいたるまで、二人以上の力士を選び、その秩序のなかで全体を維持していくという巧妙な仕掛けである。
欧米のスポーツに(いや社会全般に)、こうしたランキングは存在しない。テニスにしてもゴルフにしても、ランキングは必ず、1位なら一人である。この観点からすれば、日本はダブル・スタンダードが社会システムを機能させていると言えるのだ。