第4回 相場があって相場がない年寄株の売買
この欄の第2回『年寄株(年寄名跡)一覧と襲名条件』でも説明したが、年寄株は正式には「年寄名跡」と言われ、現在、その数は105(一代年寄は除く)と定められている。いろいろな例外はあるが、基本的には、次のような条件を満たせば、年寄株を持てることになっている。
- 最高位が小結以上
- 幕内通算20場所以上
- 十両以上(関取)を通算30場所以上
この条件がなくとも、相撲部屋継承者と承認された場合には、次のいずれかを満たすと、年寄株は持てる。
- 幕内通算12場所以上
- 十両以上(関取)を通算20場所以上
つまり、関取になって一定期間を経れば、たいていの力士は資格保有者になれるわけだ。
しかし、前記したようにその数は限られている。となれば、供給が限られているのに需要が多いということだから、いくらでも高値で売買できてしまうのである。もちろん、定価などない。
あの大鳴戸親方は、暴露手記の中で、年寄株を「3億円で武蔵川親方(元横綱三重ノ海)に売った」と告白している。年寄株を手放すことは、相撲協会から離れることを意味する。それは、相撲部屋を経営する親方にとって廃業を意味するが、大鳴戸親方はそうまでしても返さなければならない借金があったわけだ。つまり、ほとんどなんの才覚もなくとも金を生み出す年寄株を持ちながら、それを手放すほど借金をしたことを考えると、彼がいかにいい加減な生き方をしたかがわかるだろう。
それはともかく、そのいい加減さと、彼の告白の価値はイコールではない。
彼の告白と怪死があったから、その後、相撲協会は年寄株の改革に乗り出さざるを得なくなったからだ。この改革問題は別の項目で述べるとして、大鳴戸親方を例にとって、年寄株がどのように売買さるのか、また、どのようにお金を生み出すのか見てみたい。
年寄株の売買でもっともウマ味があるのは、一門の外に売る場合である。
当然、大鳴戸親方も、そう考えた。そして、まず頭に浮かんだのが当時隆盛を誇っていた旧藤島部屋(現二子山部屋)だった。しかし、二子山・藤島の合併問題が起こり、藤島部屋が資金不足におちいったため、リストからはずすことにした。続いてリストにあがったのが大鵬部屋。ここでは、大鵬が一代年寄であるため、後継者の貴闘力(三女の婿:後の大獄親方、野球賭博事件で解雇)にゆずる株がなかった。そこに、大鳴戸親方は目をつけた。
じつは、大鵬部屋の功労者・巨砲のために、大鵬親方は大獄という年寄株を用意していたが、それを貴闘力に譲ることにしたために、巨砲に譲る株がなくなっていたのである。
大鵬と巨砲は、大鳴戸親方の話に乗ってきた。売値は3億3000万円。巨砲は最初に手付けの9000万円を払った。しかし、その後の資金が続かず、とうとう1年たっても全額が払えなかった。
そこで、大鳴戸親方が次のターゲットにしたのが、武蔵川親方だった。「武蔵川はまず値切ってきて、結局3億円で話がついた」と、大鳴戸親方は告白している。ところが、この売買はすべてがヤミからヤミ。領収証のたぐいは一切なかったという。これが、年寄株の売買である。
武蔵川親方といえば、1981年に出羽海部屋からの分家独立を許され、武蔵川部屋を創設した人物である。普通、新部屋の創立(分家独立)は難しいとされるが、「人格がよく、頭も切れたので、先代が了承してバックアップした」(角界関係者)という。
その後、武蔵川親方は横綱・武蔵丸などを育て上げ、2008年に第10代日本相撲協会理事長に就任した。しかし、理事長在任中に野球賭博問題が起こって謹慎し、その後辞任してしまった。武蔵側親方は、現在、部屋の経営を18代藤島(大関・武双山)に禅譲している。この部屋継承に当たっては、武蔵川と藤島の年寄名跡を交換せず、2010年9月に武蔵川部屋から藤島部屋へと看板を掛け替えている。
また、いったんは大鳴戸親方から年寄株を手に入れかけた巨砲は、1992年に引退すると、大鵬親方所有の年寄・大嶽を借り、さらに朝日山親方(元大関・大受)所有の楯山を借りて、大嶽部屋の部屋付き親方として相撲協会内に残った。しかし、2003年から借り株の年寄は主任以上にはなれないとされたため、平年寄に降格し、2008年9月場所を最後に玉春日が引退したため、玉春日に年寄株を譲り、日本相撲協会を退職している。
ちなみに、このように売買された「大鳴戸」株は、もともとは大鳴戸親方が現役中に元朝日山親方から1500万円で買ったものだから、その利ザヤは、なんと2億8500万円ということになる。